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信頼の解き放ち理論

「囚人のジレンマ」などのゲーム理論をちらと見聞きしたことのある方は多いでしょう。自分が裏切れば自分が得することが出来るが、相手も同じように考えるとすれば出し抜かれた自分を含めて多くの人が損をすることになる。ならばむしろ協力することで、中くらいの得をみなで得る方がいいと、みんなが考えるはずだ。だからここは協力でいこうといった話です。1998年ごろ山岸俊男という方が提唱した信頼の解き放ち理論はもう少し複雑になっていきます。ネットで検索してみると「安心」と「信頼」を対立項として設定して言及している記事が多いようです。安心というものがどういうものなのかの心理学的な詳細は今の私はよく知りません。信頼やそれに類する話はパーソナリティ心理学や発達心理学などいろいろなところで出てきますが、私が面白いと思ったトピックの一つに次のような話があります。

ある人が見知らぬ人から1ドル貸してほしいと頼まれる。貸すかどうかが何によって決まるか。頼みにきた人の身なりや立ち居振る舞いよりも、頼まれた方のパーソナリティの違いの方が統計的には強く影響していた。

簡単に言うと、自分が困った場合は、自分をどのように見せつつ頼むかよりも誰に助けを求めるのがいいかを気にした方がよいというものです。別の研究では、助けてもらう当てがあるかどうかで気分的な安定は得られ、実際に助けてもらった過去の事実やその頻度などはそれほど重要ではなかったというものもあります。この当てになると思えるかどうかというのはまさしく「信頼」と言っていいと思うのです。山岸さんの説によると、社会の中で営みを続けるにあたって人はその不確実性をできるだけ減らしたい。衣食住や自分と家族のライフサイクルなどの見通しを立てたいわけです。ではどうしたら不確実性を減らせるか。二通りあるといいます。一つは、取引や作業で関わるたびにその都度の関わりのある要素をよく確かめて、そうして取引についての確からしさを勘案する労力を費やす。これを「取引費用をかける」というそうです。正統法な感じですね。もうひとつは、予め取引や作業など関係しそうな人をある程度特定しておいて、その人たちと平素から社会的な紐帯を持っておくこと。つまり信頼関係を作っておくことです。この絆を保つために労力を費やすことを「機会費用をかける」というそうです。二つともコストを払う話です。山岸さんはさらにこう進めます。相手を特定しない場合の他人への信頼を「一般的信頼」とすると、この一般的信頼の高い人は特定の誰かについて、その人がどの程度信頼できるかの情報について敏感である。またこのような人は特定の人たちとの関係に依存する割合が少なくて済むので「機会費用」をあまり払わない。わかりやすくいうと一日中仲良しグループで井戸端会議をしたりしない、ということのようです。ここからは私の解釈ですが、一般的信頼の高い人は、不確実性を減らすために、取引費用も機会費用も闇雲に払ったりしないのです。払わなくて済むのです。相手が協力するだろうという信頼があるわけなので、自分は協力するつもりでいるわけです。こうして社会にこのような人が多く現れればそれほどに誰でもお互い信頼できるようになり、不確実性と猜疑心から解き放たれるのです。そういうことは大いにあり得ると思うのです。

実際には社会は実に様々な出来事が時空間で連携して刻々変化します。今回書いてみた視点の反証はたくさんあるでしょう。そんなに簡単に素晴らしい社会にはできない。実際犯罪は無くならないし、飢えている人もたくさんいます。しかし話が簡単ではないからというのは考えてみる必要がないという理由にはならないでしょう。もっと複雑だという場合でもそれは絡まっているというような複雑さではなく、ランダムに発生するかのような確率の問題でもないと思います。個人が生まれて社会化していく過程や社会を成り立たせている文化や規範、生理学的な環境や気候の関係の具合、切り口はたくさんあるでしょうが実現に向けての理解のための切り口の数なら有限の数の切り口で組み立てられるように思うしそうでないならばそうでないことを示せる何かを探す必要があるでしょう。