旧ブログにあった記事

フロー体験 喜びの現象学

割と前に買ってあったのですが、日常にかまけていてようやく今日読み終えました。この本は、お勧めです。私が求めていたもの、やろうとしているものに、今までの中で最も近いものです。

ここ何年かの私の興味は、個人的には「私はマジョリティが思っているようなレールからはどうやらすっかり外れてしまったようだけれども、それでもやり直しはきくのだということを、私のために証明したい」というものでした。皆さんそうだとは思いますが、私も思春期の頃から社会人になって、職場でいろいろとあり、恋愛のようなものもあって、いろいろなことがうまく行かず、そして私はあるとき思い切って大学に入り直して心理学をきちんと学び、知識や技能を身につけ、この「やり直しはきくのだ」という気分を誰かと分かち合いたいと思うようになり、実行している真っ最中です。皆さんもそうだと思いますが、私もいろいろな集団に属し、人と関わりを持つ中で、意見の合わないことは多いです。まあほんとは意見の合っている事柄の方が多いのでしょうけれど、衝突しているときの不愉快な感じがどうしても目立つので、「合わないことが多い」ように感じるだけなのだろうとは思いますが、そのときにとてもよく感じるのが「考え方」が共有できていないからだ、という感想を持つのです。

「はじめての臨床社会心理学」の「原因帰属」や「民族の理論」の「構造」や時間の概念、「議論の技法」の「場不変と場依存の論拠」、いろいろなカードを拾い集めてきました。これは先の「やり直しはきくのだ」という思いを、なんとかして文章その他「記録」に残せる方法で残し、将来の自分、ひいては私以外の誰かに伝えることができたならどんなにいいだろうか、そのような記述をするために必要な要素が何かを、ずっと探して集めてきたわけです。まだあるでしょう。今あるカードだけで満足はしていません。でもこの本に出会い、私がおぼろげながらに考えていた事柄は、やはり既に誰か(チクセントミハイ)が既に思いついていたもので、それはやはり彼の全くの独自のものではなく、連綿と人類が有史以来蓄積してきた知恵を彼なりに踏襲した上で、工夫してまとめたもので、恣意とは区別できるものであると、感じることができた喜びを、今回この記事で表明したかったのです。

マイカテゴリー「考え方」の前回の記事はトートロジーとして引き合いに出されている論理が実はトートロジーではないことや、言及のスコープをどの程度の範囲に絞り込むかによって論証の論拠の記号論的な論証の厳密さは変化してよい、変化せざるを得ない、というようなことを書いてあり、今回の記事もその「考え方」のカテゴリーに分類してあるので、前回の記事と今回のそれとでは文脈が遠すぎはしないかと自分でも思います。なので私のこれからの課題としては、この本に書かれてある事柄を、私なりに追試する方法をどうすれば見つけられるか、という作業と平行して、チクセントミハイさんにのみ心酔してしまわず、ほかの考え方についても引き続きアンテナを張っておくことはするつもりです。

ようやく本題ですが、この本は、「フロー体験」と著者が呼ぶものについての、心理学風味あり、社会人類学風味あり、哲学風味ありの、厳しくいうと読み物です。心理学の分野では、私もこのブログで紹介しましたが「レジリエンス」という概念が提唱され、「ポジティブ心理学」が時々話題に上るようになっています。ちょっと端折りますが、これからの記事の予定をここで決めておこうかなと思います。まずは私が感じていたことが裏付けられたシリーズとでもいいましょうか、そのようなことを列挙して行こうと思います。例えば「趣味は持っていた方が心が折れた場合を考えると立ち直るためにはとても有利だ」とか、はたまた「どの入り口から入っても山頂は一つしかないから、好きな入り口から入れ」、「信頼の解き放ち理論」、「『関係』の種類」などと、今回はしておきます。次回より、できるだけこの予告にそって、記事を書くことにします。