思索

納得がいくかどうかその(2)

アイ・メッセージを紹介する記事は書きました。今回は少し掘り下げて、アイ・メッセージがどうして難しいのか考えてみたいと思います。

先ず一つ思いつくのは、そもそも僕たちはアイ・メッセージという行動を学習する機会がほとんどない、というのが挙げられるかもしれません。例えば英語の場合は主語の「I」は日本語に比べるとそれはもう頻繁に登場します。大学入試の小論文は「I believe...」と書き出すと習いましたし、洋楽を聴いていてもその歌詞には日本語のそれより頻繁に「I」は使われます。まあ文法的にそうなのだといってしまえばそれまでですが、それだけではないように僕は思います。

英語圏で主語の「I」が日本語に比べて省略しづらいのは、人格神の世界宗教の思想がその人の基礎にある場合は真理は神のみが司っているために何を言うにしても「私は〜だと思うけどね(神の司る真理がどうなのかはひとまずおいておくとしても)」という含意を持たせる必要があるからだとどこかで読みました(出典を示せなくてすみません)。これに比べると八百万の神とともに暮らす日本人はそんなこと気にしなくていいのかもしれないなと思うわけです。そのため「〜だ。と思うよ。僕はね」という台詞を聞くとなんか念を押したような少し聞き慣れない感じがするほど、主語のない文章の方に慣れてしまっているように思うのです。

このような日本人の傾向がある(?)ので、アイ・メッセージは最初は少し難しいかもしれません。なにしろ「以心伝心」が美徳とされる場合も少なくないほど規範が内在化されていることをお互い期待する文化ですから。しかしやはりこの傾向はあまりいいものでないと、僕は思います。というのも、アイ・メッセージでない、規範のぶっつけ合いは、メタ認知を画期的に難しくすると思うからです。

「僕はね」と付け加えるだけで、「そうは感じない人もいるのかもしれないが」というニュアンスを持たせることができるように思います。これは、自己と他者を並列に言及することができているという点で、ただ単にAはBだろ!とぶっつける言明に比べ、よりメタな言及系をもっていると思うわけです。会話の当事者の誰か一人でもこのようにメタな次元の言明をすることで、参加者にもそのメタな次元を誘うことができるのではと、メタ認知に至る機会が豊富になると、思うのです。つづく。