思索

納得がいくかどうかその(3)

いろいろな主義主張のぶつかり合い、ひいては誹謗・中傷にまでなってしまうようなすれちがいは、参加者全員の納得がなかなか得られないためにおきると僕は思うのです。はじめは傍観していた人でも、その人にとっての聞き捨てならない発言を見とがめて飛び込んでいき、参加者が増えればそれほどに落としどころを探すのが難しくなります。そう。炎上です。

話題が自然科学の版図にすっぽり収まっている場合は既存の自然科学のどの事柄とも矛盾がないかどうかを確認できれば収束です。話題が自治会の回覧板の版図にすっぽり収まっている場合はみんなのサインがそろえば収束です。同じ職場で働いているのに彼と僕の給料の額が違っていても、仕事の内容や量が違っているからだと原因帰属をお互いができれば収束です。車を運転していて幹線道路に合流してみたら路線バスに追突された。後から来ているバスが減速しなかったせいだと思っても「公共の交通機関であるバスが優先だから」と言われれば「なるほど譲るべきだった」と矛を収めます。

主義主張を戦わせていて、正しいか正しくないかで決着がつく場合もあり、合理的かそうでないかで決着がつく場合もあり、声の大きさや腕力で決着がつく場合もあり、マジョリティかマイノリティかで決まる場合もある。いろいろな競り合いがあるわけですが、これらはまとめて「納得がいくかどうか」で収束するかどうか決まると思うのです。

人同士の出来事だけでなく、自然災害の場合も、人はそのわけを欲しがります。温暖化のせいだとか、海水温がとか、アセンションが近いからだとか、ガイアを怒らせたからだとか。この「〜だから」のように一見因果関係をいうような言い回しができるような命題は僕が察するに全部「納得」するためのものです。人々が求めているものは、「わけ」ではなく「納得」なのだと思うのです。

そういうわけで、何か盛んに話し合っているところに飛び込むときは、その人たちが欲しがっているものが何かをよく見極めないと痛い目にあいます。因果関係を煮詰めようとしているのか、操作できる改善点を探しているだけなのか、悪者が誰なのかを決めたいのか、そしてその人々が何をどう納得したくて延々とやりとりしているのかをわかってから、入っていかないと、不愉快をもらうだけならまだしもうっかり不愉快を与えてしまう事にもなりかねないのです。